序章
旧小笠原伯爵邸写真1

幕末の乱世を生き抜いた男

 今日では礼法の宗家として知られる小笠原家は、代々小倉藩などの藩主を務める大名の家系で、現在も流鏑馬に小笠原流の名を残す、武芸にも秀でた一族であった。小笠原邸の設計を担当した『曾禰・中條設計事務所』代表・曾禰達蔵(1852年・嘉永5年生まれ)の家も、唐津藩主・小笠原長国に仕える士族の家系で、曾禰自身、藩主長国の世継である長行に気に入られ、10歳から小姓を務めていた。長じて後も長行の家臣として仕えていたが、明治維新の折、戊辰戦争での敗北を機に主君長行が、新政府に追従する父長国と袂を分かち、新政府への徹底抗戦を決意したことで、大きくその後の人生を左右されることとなる。
 新政府軍に追い詰められ、榎本武揚率いる幕府艦隊とともに函館での最後の決戦に臨む長行は、常に傍近く仕えた曾禰に唐津に戻るよう命じる。函館が幕府軍最後の地であることを覚悟した長行は、曾禰の豊かな才能と可能性を惜しんだのであろう、苦楽をともにしてきた忠臣に、断腸の思いで最後の下知を下したのだ。…「生きよ」と。
 長行の予想通り函館五稜郭での戦いは熾烈を極め、五稜郭に立て篭もった長行と幕府軍は、多くの戦死者を出した挙句敢無く降伏した。もしも同行を許されていたなら、曾禰もまた、幕府軍や土方歳三らとともに函館の地に散っていたことであろう。

旧小笠原伯爵邸写真2

新たな志を棟に〜日本発の建築家誕生〜

 幕府軍の惨敗とともに、265年もの間栄華を誇った江戸時代が幕を閉じ、新政府のもと“明治”と元号が改まって4年後の1871年(明治4年)、唐津藩藩校『英学寮耐恒寮』が開校する。かの高橋是清を英語教師に迎えたこの学校に、かつて反政府軍指揮官の側近であったという過去を持つ故に、新政府下では不遇の身にあった曾禰は、第一期生として入学している。その後、帰京する高橋とともに上京した曾禰は高橋家に間借りし、翻訳などのアルバイトをしながら勉学に励み、1873年(明治6年)、後の東京大学工学部の前身である『工学寮』を受験、見事一期生として入学を果たす。
 歴史家になることを夢見ていた曾禰が、まったく畑違いの工学寮への入学を決めたのは、食住完備で官費支給、卒業後には工部省への入省が約束されているという好条件に、背に腹は替えられぬ思いだったのだろう。当時の曾禰の収入は、勉学を続けながらのアルバイトのみで、生活はギリギリの状態。困窮を極める実家に援助を求めることもならず、生活・将来ともに保証された工学寮入学は、やむを得ない決断だったと推測されるが、曾禰はこの時の選択を生涯悔いていたという。

旧小笠原伯爵邸写真3
 1877年(明治10年)、工学寮は工部大学校と改称し、造家学科(現在でいう建築学科)初代教授にイギリスの建築家ジョサイア・コンドルを招聘する。コンドルは「鹿鳴館」(1945年焼失)・「ニコライ堂」(千代田区・神田駿河台現存)・「岩崎久彌邸」(文京区・湯島現存)など、正統派欧風建築の傑作を生み出し、現在も“日本近代建築の父”として、多くの建築家に影響を与える建築家である。また、この頃の曾禰の同窓には「日本銀行本店」(中央区・日本橋現存)・「東京駅」(千代田区・丸の内現存)などを設計した辰野金吾や、「迎賓館赤坂離宮」(港区・元赤坂現存)を設計した片山東熊らがいる。
 1879年(明治12年)に工部大学校を卒業した曾禰は、辰野・片山らとともに日本初の建築家となり、母校の助教授を勤める傍ら、規定通り工部省に入省する。その後数度の転勤・移動を経て海軍省に入るが、官職としての建築に行き詰まりを感じ、新たな道を求めて退官。恩師コンドルを頼って再び上京する。この時、三菱の顧問を勤めていたコンドルは、曾禰を三菱に推薦。入社が叶った曾禰は、コンドルとともに丸の内オフィス街建設を手懸けることとなる。
旧小笠原伯爵邸写真2

 1893年(明治26年)、曾禰はコンドルの代理として「シカゴ万国建築家会議」に出席し、以前から切望していた洋行を果たしている。翌1894年(明治27年)日本最初のオフィスビル「三菱一号館」完成。その後も曾禰が三菱を定年退職する1906年(明治39年)まで、コンドルとの二人三脚で数々のオフィス・ビルを建設し、日本の都市の近代化に大きく貢献したと言っても過言ではないだろう。
 定年と同時に事務所を構えた曾禰は、2年後の1908年(明治41年)には後輩の中條精一郎を迎え、「曾禰・中條建築事務所」として事務所を拡大。多くの若い建築家を擁し、戦前の日本建築会において最多の設計数と、最高の建築を誇る大事務所にまで発展させた。1912年(明治45年)に竣工した「慶応義塾創立五十周年記念図書館」(港区・三田現存)は、曾禰・中條建築事務所の仕事(設計は中條)の中でも著名なもののひとつで、そのノスタルジックな佇まいは、今もなお健在である。

旧小笠原伯爵邸写真5

波乱の運命を負う館−小笠原邸激動の78年

 快進撃を続ける曾禰・中條建築事務所が、日本の近代建築にはめずらしいスパニッシュ様式の、旧華族・小笠原長幹邸を完成させたのは1927年(昭和2年)。スパニッシュ様式は、多分にイスラム建築の影響を受けているが、この「イスラム風」は、曾禰の恩師コンドルの建築の特徴でもあった。留学の経験もあり、モダンな感覚を持つ施主の長幹と、やはり留学経験のある中條、そして「イスラム風」を得意としたコンドルの愛弟子である曾禰。3人の出逢いが、この美しい邸宅を生み出したとも言える。 完成した小笠原邸を目にした曾禰は、この館が誕生から僅か十数年あまりで、自分と同じく数奇な運命を辿ることになるとは、予想もしていなかったに違いない。
 小笠原家の人々はもちろんのこと、多くの著名人たちにも愛されたこの美しい館は、第二次世界大戦の最中にも奇跡的に戦火を免れはしたが、ようやく迎えた終戦が、この館と小笠原家の人々に思わぬ不幸をもたらすこととなった。進駐してきたGHQ(連合国最高司令官総司令部)に接収されてしまったのだ。この時を最後に、小笠原家の人々が再びこの館に住まうことはなかった。
 およそ8年もの間GHQに占領されていた小笠原邸は、1953年(昭和28年)東京都に下げ渡され、間もなく児童相談所として新たな道を歩み始めるが、財政難の東京都には、この美しい館を管理・保存する余裕はなく、ただ荒れるに任された挙句、児童相談所が閉鎖された後は、20年近く廃墟として放置され、1975年(昭和50年)、ついに取壊しが決定した。しかし、最大の危機に直面した小笠原邸に、多くの人々が救いの手を差し延べる。この近代建築の傑作を守ろうと、日本建築学会などが強力に保存を訴えたのだ。中でも特に強く保存を叫んだのは、曾禰の玄孫にあたる女性建築士だった。
 1980年(昭和55年)人々の願いが通じ、東京都は取壊し決定を撤回、保存が決定した。どうにか命拾いした小笠原邸だったが、その後20年も放置され、2000年(平成12年)になってようやく東京都は、修復・保存の方法を模索し、結果、全面修復することを条件に、民間企業に12年の期限付きで貸し出すことを決定した。それから一年半をかけて入念に修復された小笠原邸は、2002年(平成14年)スパニッシュ・レストランとして甦ったのである。残念ながら内部は、レストランの利用客(完全予約制)にしか公開されていないが、大規模 な修復のおかげで往時の美しさを取り戻した外観は、一般の人々も見ることができ、併設されたカフェなら予約なしに利用可能。手頃な値段で美味しいスペインの軽食を味わうことができる。

旧小笠原伯爵邸写真2

 時代に翻弄され続けた館は、人々の熱意によって再び命を与えられた。それはまるで、設計者の一人である曾禰達蔵が、かつてその才能を惜しんだ主君長行に、生き延びることを命じられたように、小笠原邸の美しさを惜しんだ人々が、この館に「生きよ」と命じたかのようでもある。そして小笠原邸もまた、曾禰のように見事な転身を果たして現在に至っている。
 数奇な運命を力強く誠実に乗り越えた男の想いが、70年以上もの間、この館を守り続けたのだろう。そして、これからも…。