平安時代後期、奥州(おうしゅう:青森・岩手・宮城・福島4県の旧総称)清原一族の内紛から1083年(永保3年)に起きた「後三年の役」は、当時陸奥(むつ:青森と岩手の一部)を治める国司として当地に赴任していた、武将の中の武将“天下一の武将”の誉れ高い、八幡太郎こと源義家(みなもとのよしいえ)をも巻き込んで、1087年(寛治元年)までの4年にもわたって続いた。発端は実にささいなことで、婚礼に駆けつけた一族の重臣を粗略に扱い、腹を立てたこの重臣が、婚礼の客たちの前で祝いの品を打ち捨てるなどの暴挙に及んだことが始まりだった。これに領地問題が加わり、異父・異母兄弟の骨肉の争いにまで発展してしまうのである。
発端となった事件の一方の当事者・清原真衡(きよはらのさねひら)は、八幡太郎義家の異母妹の舅で、そもそもの争いの元というのが、この異母妹と真衡の養子・成衡(しげひら)の婚礼であった。前九年の役と呼ばれる戦の際には、多大な功績をあげて一族に貢献した重臣に対し、先に失礼な態度をとったのは真衡の方であったのに、客の前で無礼な行為に及んだとして、今で言う“逆ギレ”した真衡が先に兵を挙げたのである。もう一方の当事者である吉彦秀武(きみこのひでたけ)も、国許に帰り着くなりすでに出陣の準備に取り掛かっており、真衡の送り出した追討軍と即時開戦となった。
戦いが進むにつれ戦況に不利を感じた秀武は、真衡の異母弟・家衡(いえひら)と家衡の異父兄・清衡(きよひら)に援軍を求める。しかし秀武の求めには応じたものの、真衡と真っ向から事を構えることを嫌った兄弟が兵を引いたため、一時は冷戦状態となった。一方の真衡は、この間も精力的に動き、折りよく陸奥守として着任したばかりの義家に取り入り、味方につけることに成功していた。義家の後援を得た真衡は、後の守りを成衡と義家の援軍に任せ再び出陣する。すかさず、好機とばかりに清衡・家衡兄弟が留守を狙って攻め込んで来るが、勇猛な義家軍の前に敢無く敗走し、後は真衡が秀武を討ち取るばかりとなった。ところが、秀武の本拠地・出羽(でわ:山形県・秋田県の旧総称)に向けて進軍していた真衡が、突然の病に急逝してしまい、戦を続ける必要のなくなった清衡・家衡兄弟が、あっさり義家軍に投降してしまったため、後に後三年の役と呼ばれる戦は、一旦は幕を閉じたかに見えた。

投降した清衡・家衡兄弟に対して、義家は寛大であった。兄弟を許したのみならず、真衡の領地であった奥州奥六郡を、二人に分け与えたのである。それぞれに三郡ずつを与えたのだから、何も問題は無さそうなものだが、家衡にはこれが大いに不満であった。血を分けた兄とはいえ、清衡は母の連れ子。清原一族とは血縁のないこの兄と、本家嫡男・真衡の異母兄弟であり、真衡亡き今、清原一族の血を受け継ぐ正統な後継者ともいえる己が、平等に扱われたことに納得が行かなかったのだ。しかも、肥沃な南の三郡を与えられた清衡に対し、家衡に与えられたのは、寒冷地である北の三郡であったことも、不満を募らせる一因となったようだ。
腹の虫がおさまらない家衡は、ついに兄・清衡の暗殺を企て、清衡の居城に火を放つ。この火災で清衡自身は危うく難を逃れたものの、妻子と家臣たちが犠牲となった。逃げ延びた清衡は、本来敵であったはずの義家に助けを求め、一度は終結したはずの後三年の役が再燃したのである。この時義家が清衡に加勢したのには、前九年の役で手柄を清原一族に独り占めされた経緯があったともいわれている。父・頼義とともに参戦した前九年の役で取り損ねた奥州を、今度こそ源氏のものとする好機との目論見があったようだ。
こうして清衡と義家は、それぞれの思惑を抱きつつ、手を携えて家衡打倒に立ち上がる。一方、すでに出羽に逃げ帰っていた家衡は、討伐隊を迎え撃つべく万端の準備を整え、堅固に守りを固めていた。義家率いる国府軍は、数千の兵をもって果敢に家衡軍を攻撃するも、家衡軍の守りは思いの外固く、膠着状態のまま戦は数ヶ月にも及んだ。そして予想外に長引いた戦いは、義家軍に撤退を余儀なくさせることとなる。有数の豪雪地帯である出羽の冬が、義家軍に牙を剥いたのだ。
陸奥を本拠地とする国府軍といえど、出羽地方の冬の寒さはまた別格であったようで、それに加えて食料も乏しくなり、飢えと寒さで疲弊する一方の兵たちの姿に、義家は陸奥への退却を決意する。

義家が、前回と同じく陸奥から出陣したのなら、遠く武州(ぶしゅう:埼玉県・東京都・一部神奈川県の旧総称)牛込を通るはずはなく、根拠のない伝説ということになる。しかし八幡太郎義家が、厳島神社に縁が深いことは事実であり、いくつかの分社にその足跡を残している。さらに、万能の女神弁才天が水神であり、戦勝をもたらす女神であることも、義家・厳島神社・弁才天を結ぶ鍵といえるだろう。
抜弁天の由来は、一度は撤退した義家がこの牛込での祈願の後、苦戦の末に見事本懐を遂げ、その返礼としてかの地牛込に厳島神社を勧請し、弁才天を祭ったと伝えている。抜弁天の名の由来も義家の戦勝にあやかって、「苦難を切り抜ける」の意から“抜弁天”と名付けられたそうで、この由来を知っている受験生やスポーツ選手などは、今も「ここ一番!」に祈願に来るのだそうだ。地元の人々の中には、「抜弁天通りと余丁町通りの間の抜け道だから」この名がついたと思っている人も多いが、由来の真偽はともかく、八幡太郎義家と何がしかの縁があることは間違いないのだろう。
由緒ある神社であることも間違いがなく、東京23区の神社の中で最も高地にある神社であることから、やはり建立当時にはここから富士が望めたことも疑いない。
移ろい行く時の中で、次第にビルに埋め尽くされてゆく景色に、女神は何を思っていただろう。美しい楽を奏で、水音に耳を傾ける女神には、この場所は少し騒々しいのではないだろうか?
ホワイトヒルに住まう人には、是非この慎ましやかな社を訪れてほしい。そして、喧騒の中から微かに聞こえる、美しい女神の奏でる妙なる楽の音に耳を傾けてほしい。その時、八幡太郎が女神に捧げた古の絶景が、ビルの彼方に垣間見えるかもしれない。