
1687年(貞享4年)徳川綱吉によって発布された『生類哀れみの令』は、稀代の悪法として後の世にまで語り継がれ、綱吉自身も「犬将軍」「犬公方」など、現在に至るまで不名誉な渾名で呼ばれる原因となった法である。綱吉の治世には、かの有名な『忠臣蔵』赤穂浪士の討ち入り事件もあったのだが、この悪法があまりにも有名すぎて、綱吉が浪士たちに切腹を申し付けた張本人であることは、すっかりどこかに行ってしまったようだ。もっとも、忠臣蔵の方で有名になっていたとしても、悪者扱いに変わりはなさそうだが…。
「綱吉は戌年生まれだから、殊に犬を大事にするように」との高僧の助言により、犬は特に手厚く保護されたのだが、あまりにも“御犬大事”な法律のため、ヘタに犬と関わると命も落としかねない結果となってしまった。その為に飼い犬を捨てる者が急増、町はあっという間に野良犬だらけになってしまう。増え続ける野犬を始末するわけにも行かず、そうこうするうちに噛まれて怪我をする者が続出。挙句の果てには赤ん坊が野犬の餌食にされるという、悲惨な事件が相次いだ。このままでは暴動も起きかねないし、第一どんなに大事にしたって犬は税も年貢も納めてくれないのだ。漸く幕府も事態の収拾に乗り出し、野犬収容所が設けられることになった。
野犬収容所といっても、現代のそれとはまったく性質の違う、文字通り手厚く保護するための施設で、ピーク時には江戸市中5ヶ所の収容所合わせて20万頭もの犬が保護され、一頭につき商家の使用人の賃金に匹敵する額の保護費が充てられた。その上わざわざ役職を設けて専属の世話係まで置いていたというのだから、かなりの厚遇である。ただし、かかる経費はすべて地元に負担させたそうだから、相変わらず人間たちには大迷惑なのであった。それが証拠にこれらの収容所は、綱吉が死去するなりサッサと廃止され、町に解き放たれた犬たちは、常々不満を募らせていた庶民たちに、腹いせとばかりに虐められたとか。結局は犬にとっても迷惑な法律だったわけである。
そんな収容所の一つが、余丁町から若松町にかけての一帯にあり、現在のランドマークでいえば、抜弁天から第八機動隊の周辺である。ここが一杯になったため、中野にも収容所が増設されたのだそうだが、この中野の収容所跡地は、戦時中のスパイ養成所(陸軍中野学校)を経て、現在は警察学校になっている。若松町の第八機動隊といい中野の警察学校といい、跡地に警察関係の施設が建てられたのは、やはり“犬の収容所”であったが故であろうか。それ程シャレのわかる政府関係者がいるとも思えないのだが。

ここ余丁町の出世稲荷は、他の神社と比べて一つ変わった点がある。それは、社が北向きに建てられていること。通常神社というものは、特別な理由や立地的な事情がない限り、東向きか南向きに建てられるものなのだそうだ。この社がなぜ北向きなのかは調査不足で不明だが、神社の縁起とともに、このあたりの謎を調べてみるのもまた一興かもしれない。初午祭(2月15日)・例大祭(10月17日)などの祭事も行われ、例大祭の前には餅つきなどの行事もあるそうだから、ぜひ散歩コースに加えてほしい。ただし、お稲荷さんにお参りするときには、お願いごとをして拝みっぱなしではダメ。願い事が叶ったら、ちゃんとお礼参りをすること。そして、お願い事がある時だけお参りするのではなく、お参りするのなら定期的にきちんとすること。神様だって都合の良いときだけ利用されるのは面白くないだろう。それはお稲荷さんに限ったことではないのだろうが、特にお稲荷さんはその傾向が強いらしいので、くれぐれも礼を欠くような付き合い方はしないように。
慶長元年(1596年)頃、太宗という僧侶が「太宗庵」という庵を結んだのが、太宗寺の前身といわれている。やがて多くの信仰を集めるようになり、当時、現在の新宿御苑一帯を拝領していた内藤家(新宿周辺の旧名・内藤新宿の由来となった)にも厚く信奉され、内藤家の菩提寺となったことから、寛文8年(1668年)六代将軍重頼から寺領を授けられて建立された。法善寺同様布袋様よりも、閻魔像や奪衣婆(だつえば:三途の川で亡者の衣類を剥ぎ取る閻魔様の手下。ヒンドゥー教では、大黒様の妻とされている。)像、東京六地蔵の一つ「塩地蔵」の方が有名。
・ご利益:招福
・布袋尊
七福神中唯一実在が確認されている人物。10世紀の中国は唐の時代の禅僧「契此(かいし)」がモデル。お馴染みの布袋像に見られる大きな袋がトレードマークで、周囲の人々からは親しみを込めて『布袋和尚』と呼ばれていたそうだ。どこかに定住することはなく、野宿しながら街を歩き回って暮らしていた。予知能力があり、弥勒菩薩にまつわる漢詩を好んで読んでいたことから、弥勒菩薩の化身として存命中から人々に尊ばれていたという。七福神の他、十八羅漢の一人でもある。