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民藝運動と用の美

「ひより」は、「賃貸住宅とは、誰もが一度は経験する“住まい”と言う名の商品である。」というアマヤの理念の元に作られました。
学生から大人になり、そして社会人になって結婚し、子どもができて家庭人となる。そんな人生を送るであろう人々が一時を過ごす“住まい=賃貸住宅”が思い出として…“記憶の情景”として残せたら良いな、との願いでつくらさせていただきました。

土草色の左官仕上げの外壁、杉板の塀や縦格子の外観は、 中原街道と子母口街道の辻に立つ旅籠旅館の風情をイメージしました。
建物名は、高田の郷、南傾斜の高台で日当りも良く暖かでホクホクした心持になれる、 そんな立地にあるので大和言葉の"ひより(日和)"と命名しました。 デザインコンセプトは民藝運動の"用の美"をテーマとし、 インテリアカラーは日本の伝統色でまとめました。

民藝とは

民藝とは「民衆的工藝」を略した言葉で、元は造語です。1926年に「日本民藝美術館設立趣意書」の発刊と共に開始された、「民藝運動」の中心人物である柳宗悦や彼と同じ思想を持った陶芸家・濱田庄司、河井寛次郎らによってつくられました。
柳宗悦は、当時の華美な装飾を施した観賞用の作品が主流となっていた工芸文化の中、名も無き職人の手から生み出された一般の民衆が必要とする作品を「民藝」と名付け、毎日使うような日用品にこそ美が必要だと考えました。
また、民藝の特性を実用性、無銘性、複数性、廉価性、労働制、地方性、分業性、伝統性、他力性という言葉で説明している。
     実用性 鑑賞の為ではなく、実用性を兼ね備えている作られたものである。
無銘性 銘のもつ作り手ではなく、無名の職人によってつくられたものである
複数性 民衆の要求に応え、数多くつくられたものである。
廉価性 誰もが買い求めやすい程に、値段の安いものである。
労働制 激しい労働により得た熟練した技術を伴うものである。
地方性 各地域の暮らしに根ざした、独自の色や形の地方色が豊かである。
分業性 数を多くつくるため、複数の人間による共同作業が必要である。
伝統性 先人達の技や知識の積み重ねによって守られている。
他力性 自然の恵みや伝統の力など、目に見えない大きな力に支えられている。

民藝運動について

民藝運動は、民衆が日常生活で必要としてつくりだした「用」を重視した「美」の作品を「民藝」と呼び、毎日使う実用品にこそ美が必要だと提唱した生活運動です。民藝運動の活動は、各地に周り伝統的な「用の美」をもった民藝品の蒐集、伝統的な作品の手仕事による技術の復興、時代に即した新しいものづくりを推進し指導者となる個人作家の支援…などが挙げられます。
民藝運動によってつくりだされた多くの作品は現在、柳宗悦が初代館長を務めた日本民藝館や、各地の民藝館や美術館に保管されており、観覧することができます。
日本民藝館
日本民藝館には、柳宗悦の審美眼に選ばれた陶磁器・染織品・木漆工品・絵画など、日本をはじめとした諸外国の新古の民藝品が約1万7千点収蔵されています。民藝運動の同志たちの民藝作品も見ることができます。

民藝運動を支えた著名人

柳宗悦 柳は、東京帝国大学後に朝鮮半島へ行き、朝鮮の民衆雑器の多種多様な工藝に感銘を受けます。帰国後、江戸時代に諸国を遊行した僧・木喰がつくった仏像に心惹かれた柳は、日本各地を訪ね歩き旅するうちに、地方色豊かな工芸品や工芸文化があることを知ります。
そして、1926年に民藝運動を発足すると、当時主流だった華美な装飾を施した観賞用の作品を評価するのではなく、「日々の生活に美の喜びが伴わなければ、美はますます我々から遠のいてしまう」と説き、「用の美」と提唱しました。各 地の民藝品を蒐集しながら、1936年に民藝運動の同志達と日本民藝館を開設し、初代館長を務めた。
河井 寛次郎 日本の陶芸家で、陶芸の他にも彫刻・書・随書など幅広い分野で様々な作品を残している。柳宗悦、濱田庄司と共に日本民藝美術館設立趣意書を発表し、民藝運動に深く関わるようになる。
工業学校時代には、1万種類以上の釉薬や東洋古陶磁の技法について研究をおこなった。後の1920年、京都市五条坂に「鐘渓窯」と名付けた工房と住居を構えた河井は、初の陶磁個展で新人ながら名人と脚光を浴びた。1924年、中国古陶磁から日本民窯のモチーフを取り入れ、「用の美」を意識したものを生み出していくようになる。また、第二次世界大戦後には木彫の制作も開始すると、陶器の造形も不思議な造形を手がけ、模様も独自性の光る作風に変化していった。
濱田庄司 河井と同じく日本の陶芸家であり、自身の作陶家としての生涯を「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と語っている。イギリスのセント・アイヴスで約3年半の作陶生活の後、その土地固有の伝統などを作陶に活かすことを学ぶ。帰国後、沖縄に滞在すると、イギリスで学んだ作陶法を実践しながら、沖縄の伝統的な壺屋焼にならい作品をつくりあげていった。
生活に根差した制作の場を求めた濱田は、それまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地である栃木県益子に移り住み、作陶に没頭した。さまざまな地方の作陶技術を学んだ濱田の作風は、手轆轤のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様が特徴的である。
バーナード・リーチ イギリス人陶芸家であり、画家、デザイナーとしても知られている。22歳で日本に初来日してからは、文芸雑誌「白樺」の同人と交友を深め、リーチが開いていたエッチング教室にて柳宗悦と芸術の思想について語り合う仲になる。日本民藝館の設立にあたっても、積極的に柳らに協力した。
リーチは、1920年に濱田庄司と共にイギリスのセント・アイヴスに移ってから日本の伝統的な登り窯を開き、1922年にはリーチ工房を設立し生涯の拠点とした。民藝運動の思想を、海外へと普及させる伝道師としても大きな役割を担った。
リーチの作風の特徴は、西洋陶器の伝統的な手法であるスリップウエアと、東洋陶器の技術を融合させたところである。
棟方 志功 日本人版画家であり、20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。1926年に川上澄生の版画「初夏の風」に深い感銘を受け、油絵画家から版画家へと転向することを決意した。
棟方は、「板が持って生まれた性質を大事に扱い、木の魂というものを直に生み出さなければいけない」と考え、「板の声を聞く」という意味で、板という文字を使う「版画」と称した。佐藤一英の詩「大和し美し」を読んで感動すると、1936年の国画会に「大和し美し」(版画巻)を出品しようとしたが展示を拒否される。が、日本民藝館に買い上げられ、そこから柳宗悦らとの交流が始まる。
棟方の作品は版がを中心に肉筆画や書など幅広く、板画は仏を題材にした作品が特に有名である。
芹沢 銈介 日本の染色工芸家であり、20世紀日本の代表的な染色工芸家として国内外から高く評価されている。沖縄の染物・紅型に出会ったことをきっかけに、型染めを中心とした染色の道を歩み始める。
柳宗悦らの民藝運動に加わると、樺細工や花筵といった民藝の指導にも優れた能力を発揮する。一般的な型染が絵師・彫師・染師といった職人の分業によって制作される一方、型絵染(かたえぞめ)は作品の全工程を芹沢銈介がひとりで手がけていた。型絵染は芹沢が創始した技法で、人間国宝に認定された折にこの呼び名が案出された。芹沢は、風景や自然から得たモチーフを大胆に図案しているが、初期から晩年まで明解で親しみやすい作風を一貫している。
池田 三四郎 日本の木工家で柳宗悦に師事し、民藝運動に参加した。京都の相国寺で開かれた日本民芸協会第2回全国協議会において、柳宗悦の「美の法門」と題した講演の内容に圧倒されると、後に柳宗悦から託された松本の木工業の復興を果たすため、家具造りの道を歩み始める。
長野県の松本は大正時代の末、日本屈指の和家具の産地として栄えていたが、太平洋戦争直後の混乱により、和家具の生産は休止状態になってしまう。そこで池田は無名の名工を集め、これからの日本の暮らしに必要とされるであろう洋家具を作らせると、松本の家具つくりは活気を取り戻していった。松本民藝家具の創始者であり、松本民藝家具の椅子は民藝品としても有名である。